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シュピルマンの時計

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シュピルマンの時計

著者 クリストファー・W・A・シュピルマン
発行 小学館

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大ヒット映画「戦場のピアニスト」の主人公のその後の人生。壮絶な体験を経て、ピアニスト・シュピルマンは、自らの人生をどうやって取り戻したのか。日本在住の長男クリストファーが亡き父を偲んで書き下ろす。===データベース===

 この本は、映画「戦場のピアニスト」で記憶に新しいウワディスワフ・シュピルマンの結婚後の様子を、長男のクリストファー・W・A・シュピルマンの目線から描いた作品です。ポーランド音楽界の重鎮として恵まれた後半生を送ったシュピルマンは、2000年7月に88歳で亡くなり、国葬のような形で葬られました。といっても、18歳でポーランドを飛び出し、イギリスやアメリカで学んだのちに歴史学者として日本で教鞭をとっていた著者は、それほど父親と身近に接していたわけではありません。偉大すぎる父を持った息子が、その父親の回想記が書かれてから半世紀以上もたって映画化され、世界的にヒットしてしまったことへのとまどいとともに父の思いに対して、少し距離を置いた視点で客観的に綴っています。

 ここでは独身だったシュピルマンが結婚する前後から話がスタートします。戦後ワルシャワ国営放送局に復帰したシュピルマンは、1946年に映画の原作となる「ある都市の死」を出版したあと医学生の女性と出会い、50年に結婚します。彼女はハリーナ・グジェチュナロフスカ、年の差は19歳もありました。翌年には長男クリストファーが、56年には次男のアンジェイが生まれています。「ある都市の死(戦場のピアニストのオリジナルタイトル)」は一部では、一般には発売後に発刊禁止になったという記述が見受けられますが、当時紙は貴重な物資で、再版されることが稀な時代だったということで決して発禁になったものではないということがこの本で述べられています。何となれば妻になるハリーナもその本を読んでいて、シュピルマンがその本の著者であることを知っていたと書かれています。

 クリストファーは、11歳の年に弟と供に屋根裏に隠されていた「ある都市の死」を見つけて読みます。この時クリストファーには、それまで謎だった父の行動の意味が初めてわかります。父は、長男がけがをしたり病気したりするのを極度に恐れていたのです。ナチスに一族を奪われた彼は、もうこれ以上家族を失いたくなかったのです。何しろ母方には親族がいますが、父方は誰一人としていなかったからです。

 クリストファー・W・A・シュピルマンは、正式にはクリストファー・ウワディスラフ・アントニ・シュピルマンという名前です。クリストファーは直訳すれば「キリストを運ぶ人」、つまり、キリストの教えを広める人という意味です。これはカトリックだった母の思いがこもっています。で、ウワディスラフは父の名前で典型的なスラブ系の名前です。アントニはカトリックの聖人の名に由来するもので、か弱い子供を保護する聖人という意味です。最後のシュピルマンはファミリーネームです。このクリストファーは2ヶ月も早産で生まれています。当時のポーランドの医療では生存出来るかどうか危ぶまれたということで、名前の如く神の加護を切実に願わなければならなかったことが分ります。それは医学を学んでいた母親でも如何ともし難い現実でした。

 しかし、寝る子は育つものでクリストファーはいっぱしのガキンチョになり、親の心子知らずで育ちます。で、18にしてポーランドを飛び出しイギリスへ飛び出します。ただ、彼が日本びいきになる下地はポーランド時代にあるようで、共産圏の国の中では比較的西側諸国の文化に触れられていたようで、娯楽の無い時代ですから映画が一番手っ取り早く異文化を吸収する窓口であったようで、子供ながら黒澤明や小林正樹の名前も小学生の頃から知っていたといいます。

 当然のことながら映画でシュピルマンを助けることになるドイツ軍大尉のホーゼンフェルト氏のことについても一章が割かれています。映画ではただ単にドイツ軍大尉としか描かれていませんが、彼はナチスではありませんでした。ドイツ国軍の将校でしたが職業軍人ではありませんでした。元々は高校の教師で、第1次大戦の時に将校として戦争に行き、第2次大戦のときは予備役として動員されたようです。そして、映画でも自らベートーヴェンのソナタを演奏するような教養人でもあったということです。この本では、ユダヤ人の救出に奔走していたドイツ人の一人としてクリストファー氏は捉えています。

 シュピルマンが書いた「ある都市の死」ではオーストリア人として描かれていて、この部分だけが史実ではなかったわけですが、彼の名を聞かなかったのは当時の状況化では正しい判断でした。1951年になって放送局宛に届いた一通の手紙で、シュピルマンは将校の名をホーゼンフェルトと知ることになります。シュピルマンは1957年に西ドイツに演奏会で行ったおりに彼の故郷フルダの町を訪ねています。しかし、そこで収容所で亡くなっていることを聞き落胆します。しかし、両家の付き合いは今も続いているといいます。

 ところで、「ある都市の死」は過去に一度映画化されています。ポーランド国内で1948年にそういう話がもちあがり、脚本まで書かれます。ところが共産党からクレームが入り、主人公はピアニストから労働者集団に変わり、ポーランドを解放したソ連の将校がクローズアップされるという似ても似つかない作品になってしまったそうです。タイトルは「ワルシャワのロビンソン」なるものであったそうです。

 さて、タイトルのもとになった「時計」は、シュピルマンが息子に送った時計のことです。この本の表紙に映っているものです。1992年に親からスイス・iwcの腕時計を贈られたクリストファーは、こんな推測をします。経済的に恵まれていたにもかかわらず、シュピルマンは必要以上にものを買い込むくせがありました。とくに時計には異常にこだわったようで、ベッドのまわりにはめざまし時計が兵隊のように並んでいたそうです。当然、腕時計も、両腕に時計の鎧ができるほど持っていました。それが時計への執着としてあらわれているとしたら、その中で一番大切な時計を息子に譲ったということは、彼が自分の人生を取り戻したことの証ではないか、というのです。父シュピルマンは、戦争で彼自身の時間を失っています。まあ、映画を見た人なら、主人公が時計をだましとられたシーンがちらっと思い浮かぶのではないでしょうか。

 父が死の床についたとき、クリストファーは福岡にいました。最後の電話で、「水分を十分にとるように」とすすめた息子に対して、シュピルマンはこう答えています。「水を、水をといいながら、一滴の水も飲めないで苦しんで逝った人のことを思うと、水を飲むのもつらいんだよ」。彼は、最後まで同胞を悼み、生き残った自分を責めていたようです。ピアニストでありながら、弟子を一人も取らず戦争の苦しみを一人背負っていたのでしょうか。引退してからはピアノを弾くことも無かったようです。ちなみに、シュピルマンの自宅にあったピアノはスタインウェイだったそうです。

 映画が公開されたのは、シュピルマンの死から2年後です。著者のクリスファーは、映画を見た人々から、生き残った父親がどんな人生を送ったのか、幸せに過ごしたのか、ときかれて即答できなかったそうです。そんなことで、父の思い出を整理し、それらの問いに対するひとつの回答として著したのがこの本です。決してシュピルマンの伝記ではありませんが、息子という肉親の立場からなかば客観的に描かれた本書は、戦争が一人の男の心に残した後遺症のすさまじさを知り、今一度映画で描かれたホローコストの状況を思い知るのではないでしょうか。映画の副読本としておすすめの一冊です。
 
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